ちょこっと記事

探究する力をつけて無計画に生きよう

探究学習が目指すもの

東日本大震災から11年が経った3月。悲しんでいる人を見るのは辛いです。それは目の前の人であっても、スマホの向こうの人であっても。心がえぐられます。

私の尊敬する気仙沼の先生方が、異動するにあたってメッセージをくれました。「探究する力は、子供たちがいかに自由に生きうるかを探究する根源的な力になります。『探究』の目指す最上位の目標です」「『探究』の目標の1つは、民主的な世界をつくることとも思います。対話し、話合い、最適解を見つけ、協働的な社会をつくるためにも『探究』は重要なのです」

どうしようもない虚しさ

一歩ずつ丁寧に探究学習を盛り立て、彼らの自由を育てることで報いるしかない、と強く想う一方、私はなんて非力なんだろうと悲しくなります。なんで力になれなかったんだろうと。11年間がむしゃらに走ってきましたが、気仙沼や唐桑の人口減少が和らいだワケでも、社会教育の縮小に歯止めをかけたワケでもありません。何か大きなものに対峙すると、やりがいのある仕事ができますが、ときにどうしようもない虚しさにも襲われます。

有名なレンガ職人の寓話があります。旅人がレンガを積んでいる職人たちに出会い「何をしているのですか?」と問うという話です。ある職人は「レンガを積んでいるんだよ」と答え、ある職人は「後世のために大聖堂をつくってるんだよ」と答えます。一般的な教訓として、確かに後者の職人のモチベーションは素晴らしいです。でも、彼は大変ですよ。志が高ければ高いほど、焦燥や挫折、虚しさに見舞われるからです。私のようなそもそもせっかちな人にとって、高い志なんて諸刃の剣です。

無計画に生きよう

憤り、使命感を燃やす私を、ある先輩がなだめてくれます。「もっと気軽に、教育なんて牧歌的にやらんと/周り道が近道に変わる時代だと最近は思う/無計画に生きよう/真剣に生きるのはもうやめた方がいいんだよ。現代人は無駄な責任感が強すぎる/本来、人は自由であるべき」奇しくも11年前の同じ3月12日、「東北に行け/会社はいつでも入れる」とメールをくれた先輩です(結果、新卒の私は入社を辞退して被災地に入ることを選びます)。焚き付けておいてよく言うよ、とも思いましたが、「無計画に生きよう」という意味では一貫してます。その瞬間その瞬間、自由か?と。肩の力が少し抜けました。

「生きているということ/今生きているということ/それはミニスカート」(谷川俊太郎)というフレーズがふと降ってきます。自由を育てるという使命に多少の不自由さを感じながら、22年度を歩み始めました。

(文・加藤拓馬)

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